批判と耐性

ゲーム実況界隈なのかどこなのか、そこでは「人権」という言葉を全然違う意味として使っていたようですね。自分(たち)には必要ではない存在、使えない存在という意味合いのようで。

数日前から話題になってるeスポーツの人が発した「身長170cm以下の男には人権がない」という問題発言。僕も165cmなので正直、なんでそんなこと言われなきゃならないんだとイラっとしましたが、同時に「こんなヤツに自分の精神を振り回されているのが時間の無駄」と思ってどうでもよくなりました。


こういうの「耐性」と言えます。


30〜40年くらい前、僕が子どもの頃に比べて今は「相手が嫌がることをしてはいけない」という世の中の圧力が非常に強くなりました。それ自体は一概に悪いことではないかもしれませんが、発想がエスカレートして「相手が嫌がる『かもしれない』ことを言ってはいけない」がさらに「ヘイトだ」「ハラスメントだ」になり、いつしかルールになりました。そして正義の名をふりかざして無差別に相手を叩く人がとても増えました。


僕は正直、今の世の中は思考や発想、使う言語を抑制されている感じが、とても息苦しい。


別に悪口が言いたいわけではないし、明らかにヘイトである言葉や明確なハラスメントはダメです。しかし、自分がイヤだなと思った時にすぐに何でもかんでも「それはハラスメントだ」と世間の風潮を盾にするクセがつくのは耐性を弱くしてしまいます。そしてこの思想の先には「自分が嫌だと感じることがない世界」を理想としていることが危険だと感じています。


例えば、人生において受験、試験、試合、審査、面接、オーディション、コンクールなどの一定レベル以上の力を持っているか確認する場や、優秀な人を見つける場、順位をつける場においては必ず不合格、敗北があり、そうならないためにみんな一生懸命勉強したり、練習するから人間は成長するのです。

しかし以前、子どもの運動会のかけっこで1位を決めないところがあると聞きました。これです、これ。これが危険な発想なのです。子どもの成長の機会を大人が奪ってどうするのか、と。

この思想は、「できる子も、できない子もみんな平等」と表向きは良いことを言っているように感じますが、学力差があってもみんな同じ仕事ができるとか、資格がなくてもやりたいと言えばやらせてくれる社会とか、法律勉強しないでも裁判官になれたりするわけですよ。


そんな危険な世の中はいけません。他の人よりも上に行きたい、自分の力を認めてもらいたい。順位や優劣をつけられる環境に自分を置いて、成功体験や成功したい気持ちと一緒に「失敗したくない」「負けたくない」の発想も必ず持った上で努力し、成長しなければならないのです。

「耐性」を強化する機会がなくなったら、人間は成長できなくなります。そして耐性がないために、自分は悪くない、悪いのは自分以外だ(自分を守ってくれなかったから)、と矛先は他の人間に向けられます。向けられた人も耐性がないので、世の中は恨みや争いが生まれやすくなります。


恐ろしいですね。しかし、すでに世の中はこの流れになっています。


僕はそうなりたくありません。だからたくさんチャレンジして、たくさん失敗して、たくさん辛い思いをして、それらも全部自分を強くする耐性作りの材料であると思おう、そして自分がやりたいことを貫くぞ、と考えています。



荻原明(おぎわらあきら)


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