ハラスメントを使いすぎると防御力が下がりますよ。

はあちゅうさんのセクハラ・パワハラ告白が話題になってます。

じっくり読んでみたけれど、昭和の運動部かよ。ってレベルの内容に呆れるばかりです。


ハラスメントって「嫌がらせ」って意味。ウィキペディアの冒頭では

嫌がらせ(いやがらせ)とは、特定、不特定多数を問わず相手に対し、意図的に不快にさせることや、実質的な損害を与えるなど強く嫌がられる、道徳(モラル)のない行為の一般的総称。英語では harassment に相当し、日本でも、嫌がられる行為をすること(または何がしかの行為に不快感を示すこと)を指してハラスメント[1]と表現する場合もある。類似の概念に「いたずら」がある。

と書いてありました。


要するに、(第三者と自己比較したとき)自分が弱い(と(その分野や場面で)自覚している)人が、強い(とその分野や場面で自分が感じている)第三者の権力や財力、筋力、言語力、行動などによって自分が「嫌だな」と思ったことに対しての社会的自己防衛手段を「ハラスメント」というひとつの言葉として集約した、ってことですよね。


多分この言葉は、


社会が円滑に、みんなが平等に、何のしがらみもなく、平和で、生き生きと、自分を発揮できる社会


そんな理想から生まれたんですよね。


で、実際はどうか。


自分に都合悪いとき、すぐ使ってません?

マスコミは流行語を作りたくて、なんでもかんでも「◯◯ハラ」って造語を面白がって垂れ流してません?


ものすごくこれを感じて、僕は嫌いなんですよハラスメントって言葉がとても。


だって考えてみてください。気に障ることをすべて「ハラスメント」扱いすると、その結末にはどんなことが待っていると思いますか?


人間同士の距離がどんどん離れていくんですよ。

そして、

自己の成長や進化を妨げるんです。



気に障ること、都合の悪いことを世の中の人間が全員ハラスメントだ!って言い始めたら、お互いが関わらないことがベストになりますよね。


関わらないので情報はすべて一方的になり、

競争できなくなるので、高め合いがなくなり、

相手の気持ちを汲むなんて、そんなことは一切なく、

自分の事情を理解してくれる人もいなくなり、

諭してくれる人も当然いなく、

協力しようとする気持ちは生まれず、

要求は通らず、



同じ地球の上を歩いているのに全員が関わりのない物体となり、一切の成長は止まるわけです。

愛情もなくなる。


自己防衛力ではなく、社会の盾だけを使っていると、後にこうなります。



例えば、最も典型的な例として、会社の男性が女性の社員に対し(その女性社員はものすごい精神的ガードをしているとして)「髪型変えたんだ、似合ってるよ」と言ったその瞬間「セクハラ!」ってなるわけです。


女性が綺麗な服を着ていたら男性が「キレイな服着て、今日はデートかな?」と言ったその瞬間「セクハラ!」ってなるわけです。


社会的にそれがまかり通っているわけですから、この場合の女性がセクハラだと思えばセクハラなんでしょう。訴えられるのはイヤですから、それを学習した男性は女性に対して何も声をかけなくなる。精神的ストレスから女性は解放される。これにて一件落着!

...なわけないんです。

この先何が待ち受けているかと言うと、誰からも声をかけてもらえなくなるわけですよ。せっかくカワイイ服をゲットして嬉しい気持ちで着ているのに、周りは「褒めたらセクハラ」になるわけですからね。じゃあなぜ時間をかけてカワイイ洋服をお金を出して購入したんだ、ってことになるわけです。もう毎日スウェットでいいじゃん。

だって褒めもけなされもしないってことなんですよ、相手に干渉しないって。人間同士の心が通わなくなるんです。


褒めて欲しい人にだけ褒めてもらい、褒めて欲しくない人に言われたらセクハラ。こんな都合良い展開になるわけがありません。結果、全員が干渉しないことしか選択肢はないわけです。


社会の盾だけを振りかざし続けるって、こういうことだと思うんです。自分の回避スキルじゃないから、防御力がまったく育たない。


ここから叩かれるんだろうな、と思うけど書きます。


自分が好みじゃない、むしろ嫌いな男性社員に「カワイイ服だね」って言われたら、(嫌いだし、ムカつくけど、ここは)「ありがとう」と言えるこれは自己防衛力だと思うんです。


「今日デート?」と言われてそんなつもりじゃない(自分の意図している言葉や思われ方と違う)と感じて、不快になっても「そんなんじゃないですよ!でもお気に入りの服なんです!」と軽くスルーしたり、「デートできる相手なんていないから誰か紹介してくださいよー!」とか冗談で受け流すスキルとか、そういうのを使ったほうが社会的には円滑になるし、それが回避スキルだと思うんです。

そもそも、この場合の男性社員はきっとそんなに深い意味で言ってるわけではないし、悪気もない。単純に服が素敵だと思って、勝手にイメージが次のステージ進んでしまったにすぎず、嫌がらせなんてするつもり皆無だと思うんです。


上記では男性が女性に、というパターンとして書いたけれど、女性と男性が入れ替わっても、男性と男性であっても女性と女性であっても、それ以外の性別であっても人間であればすべて起こり得ることですよね。


ちょっとしたジョークに変換するとか、相手の上を行く返答をできるようにするとか、それを楽しめるようなスキルを高めること、そしてお互いがお互いの気持ちを少しでも汲もうとする気持ち。これらを持っていたほうがよほど社会を円滑にできると思うんですがどうですか?


音楽のレッスンでももしかすると

「この作品は恋愛をテーマにした歌だから、自分の経験やイメージを膨らませて、心を込めて歌い上げてごらん」

がセクハラになる日もそう遠くないし、もしかすると実際にもうなってるかもしれない。


「練習が足りない!もっと努力しなきゃお客さんに感動してもらえないよ!」


これがパワハラになる日もそう遠くないかもしれない。


そうしたら、レッスンなんてできないし、奏者の成長もない。自分が自分なりの良いと思ったことをしているだけで、そんなことじゃお客さんに気持ちなんて届けられないし、そもそも相手に気持ちを届けることが犯罪者扱いになってる世の中じゃ、その発想すらないわけで。


(学生にR.シュトラウスのサロメを演奏させてもなんでセクハラにならないんですかね?なってる?)



もちろん、はあちゅうさんのように本当に辛く、理不尽なことがあれば、それはきちんと訴えるべきだと思うし、そういうときに社会の盾『も』使って自分の身を守ることはとても大切です。


自己回避できるところは防御力を高めるためにも努力をし、そうでないときには助けを求める。

なんでもかんでも軽い気持ちで口癖のように「◯◯ハラ」って言うのはどうも納得いかない。

そんな主張でございました。



僕のこと「オギハラ」って言うのは「オギハラスメント」ですよ!

苗字の読みを間違えるなんて嫌がらせだ!訴えてやる!



あ。






荻原明(おぎわらあきら)


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