音源を聴くことは悪いこと?


Twitterでこんなツイートを拝見しました。


中1で吹奏楽部に入った僕は中学2年生の頃まで楽譜が読めませんでした。特にリズムがわからない。


しかし吹奏楽部ではそんな個人的な事情は当然関係なく、次々とたくさんの曲を演奏するわけで、なんとかしなければとCDを探し回っていました。今のようにインターネットで検索すればどんな曲でも手に入れることができる時代ではなかったので、苦労した記憶があります。


やっとのことで手に入れた音源を、自分のパート譜を見ながら何度も何度も聴いて、難しいリズムを感覚的に覚えて吹いていました。特にポップスによく出てくる、タイによって生まれるリズムや、書いてある楽譜と実際の演奏が違うスウィングなどは楽譜だけではまったく理解できなかったので、この方法は大変重宝した記憶があります。なので僕は


「この演奏(リズム)は楽譜でこう書かれる」


という普通の音楽教育とは真逆の順番で楽譜を解釈した人間です。これが結構いろんなところで役立っているので、別段コンプレックにもなっておらず、むしろ強味として捉えています。


音源を聴くことは、中学生の頃の僕と同じように楽譜を読むのが苦手な人にとっての手助けになる方法です。したがって、これから自分が演奏する楽譜の完成図をイメージするために聴くことは一概に悪いことではない、というのが持論です。


しかし、高橋氏がおっしゃるように、ひとつの音源だけを繰り返し聴き続け、それが絶対の完成図としてイメージを植え付けてしまうのは大変危険です。表現は自由でなければならないし、その自由な表現は自分の中から生み出すものだからです。


「自由」とは言っていますが、自由とはある程度の制約のもと使われる言葉であって、無秩序の中での自由は認められませんし、多くは現実不可能です。

さらに、自由を実現するにはたくさんの材料が必要です。


その制約の中で生まれた自由な音楽をたくさん聴くことで「自由な表現に必要な材料」が自分の中にストックされていきます。ひとつ手に入れたらそれを参考に自分で演奏をしてみる。「最初はモノマネで良い」と言われるのは、この段階を指します。


このようにしていくつもの資料を自分の中にストックし、さらに音楽だけに限らず日々の生活、人間関係などから得られる経験をそれに混ぜ合わせて熟成していくことで「オリジナリティ」が生まれるのだと思います。




一方、「楽譜を読む」とよく言われますが、それは楽譜に書かれている数々の記号を片っ端から暗記するとか、書いてある音符の羅列を瞬時にして正確に歌い上げるソルフェージュ能力だけを指している言葉ではありません。

楽譜を読むというのはどちらかと言えば「楽譜に書かれている記号を音楽に昇華する力」であると言えます。


なぜなら、作曲家は楽譜という記号の羅列を見てもらいたくて書いたわけではないからです。自分の頭や心の中で生み出した音楽を多くの人に伝える手段として記録した「ただの紙」なのです。小説家が文字の羅列を見せたくて本を書いているのではないのと同じです。


しかし「楽譜を音楽に昇華させる力」を得るためには、たくさんのストックと経験から熟成された、オリジナリティ溢れる自由な表現力がなければ実現できません。


これらは結局、どこまで行っても個々の奏者自身の問題なので、素晴らしい指揮者や指導者は奏者を促し、背中を押すことしかできません。


学校の吹奏楽部や合唱部が、他の音楽芸術と一線を画して異常に見える瞬間があるのは、「指導者が作り出した明確な『型(かた)』を奏者(部員)たちに提供し、そこにはまるように促す力と曲作り」から生まれている音楽だからでしょう。

これがうまくいった部活の演奏が「学校吹奏楽的に素晴らしい演奏(=金賞が取れる強豪校(笑))」と呼ばれているように感じます。この方法は強固な基盤を指導者が作り出すことができれば、(その指導者がそこにいる間は)毎年メンバーが入れ替わっても一定のクオリティを維持できるので大変便利です。

音楽を作り出す方法があまりにも独特なので、他の「普通の」音楽と相容れない存在になっているのだと思います。




僕の持論をまとめると、


・音源を聴くことは問題ではない

・しかしひとつの音源はひとつの参考であり絶対的な完成図と捉えてはならない

・そうならないために、たくさんの演奏を聴く

・たくさんの演奏を聴くことでストックが増えて自分らしい演奏を生み出すことができる



こんな感じです。







荻原明(おぎわらあきら)

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