正確に言うと「いじめる人は絶対に存在し続ける」
どんなに「いじめはダメ」だとか「いじめをやめよう」と言い続けても絶対にいじめる人はいなくならない。これは絶対そう。
薄々気付いてますよね?
僕はネガティブに捉えていたり、投げやりになっていたり、ましてやいじめを推奨しているわけでは決してありません。誤解しませぬよう。
今のいじめに対しての世の中の向き合い方に疑問があります。
まず、なぜいじめる人がいなくならないのか。
これは人間という枠ではなく、もっと広く動物レベルの「本能」。
人間に限らず動物は生きるために行動しています。
食べ物が目の前にあり、これを食べなければ死んでしまうとわかっていて、それを譲る動物はいません。
これは本能から来る欲求。
そして人間の持っている欲求は食に始まる原始的な三大欲求だけではなく、現代の環境に適応するために複雑になっています。
お金が欲しい
良い成績を残したい
昇格したい
受かりたい
上手になりたい
認められたい
勝ちたい
トップに立ちたい
欲求は努力になり、成長へとつながります。ですから、欲求は決して悪ではありません。進化、発展の源です。
しかし、欲求は違った側面も生み出します。
自分が成長すれば必ずそれより成長しない人が存在する。自分が成長しても、それ以上に成長する人もいる。
結果、人間は常に比較をし、比較をされます。
何かの分野やコミュニティで比較をすると「いちばん上の人」が必ずいます。
「勝った人」と言えるかもしれません。
勝った人はその分野で認められます。
誰よりも優れているとなれば、その分野では逆らえない立場になります。追い抜けないのですからしかたがない。そして指導をする人になり、結果として指導する人は上に、習う人は下に、という構図がどうしても生まれてしまいます。
ここで指導する人がどのように出るかで大きく変わります。
欲求の中には支配欲もあり、中にはそれを強く持っている指導者も少なくありません。むしろそういう欲求が強いからこそ、指導する人間になったとも言えます。
一方、欲求は高いのにそれが叶わなかった人間も必ずいます。そういった人の中には「抗う」行動を取る人が一定数います。反発したり、嫉妬したり、悪い嘘の噂を流したり。
結局、欲求は成長、進化、発展をしますが、同時に生まれてしまう「差」。
その現状に納得できない人の「抗」。
動物はどうしてもフラットな関係でい続けることはできないのです。
どれだけ道徳教育をしようが倫理観を発信しようが、抗う人は絶対に出ます。
しかし、「抗う」も決して悪ではありません。むしろ、人間全員が何かについて100%賛成したら、選択を誤った時点で絶滅するのでとても重要な存在です。
ということなので、人間が成長したい、認められたいという欲求を持っている限り、いじめは絶対になくならないのです。
なのに、今の世の中は「いじめをやめよう」と言ってばかり。
罰則を作っても無駄です。逮捕されようが死刑になろうが、それを凌駕する強い欲求を持った人間にはそんなもの通用しません。
したがって、いじめに対して考えるべきことは、いじめる人を抑えつけるのではなく、万が一自分がいじめられる対象になった際の自己防衛のノウハウを持っておくことが必要だと思うのです。
きれいごと言うのはいい加減やめて、正直に「いじめはなくならない(いじめる側は必ず存在し続ける)」という前提で「ではどうするか」を議論しないと何も進まないと思います。
要するに、
「いじめられるのをやめよう」
これです。
僕自身が中学生のとき、少しの期間不良グループが絡んできた時期があります。
いじめられた側の取る対策のひとつになると思いますので、明日その続きを書きます。
荻原明(おぎわらあきら)
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