音大受験になぜ楽典やソルフェージュがあるのか

音大受験ってホントいろいろやることがあります。


専攻の実技は当然ですが、それ以外に楽典というペーパーテスト、聴音という音を聴き取って楽譜にするテスト、ピアノの試験、歌(視唱)の試験、センター試験などで一般教科。


もちろん学校とか専攻とかでその内容や難易度は違いますし、AO入試を採用している学校もあります。

高校生の頃、音大に行く気満々すぎてお湯が沸いてしまうくらいのオーバーヒート状態で生活していましたが、ともかく音楽に関わっていられる時間ばかりなのが楽しくてしかたありませんでした。楽典も、聴音も、知識やセンス不足で、できないことや解けない問題もたくさんありましたが...。


でもやっぱりトランペットを吹いている時間が何よりも楽しい。吹けない、できない、納得いかないなんてのは常にありましたが(高校生の頃はかなりネガティブ思考に陥っていたのもあると思いますが)、根底にあるのはやはり「楽しい!」でした。

だから、できることなら楽典や聴音は後回しにして、ずっとラッパを吹いていたい。だってラッパ上手になりたいから。「楽典なんてやってる場合じゃないんだけどなあ(ラッパ吹きたいんですよ!ラッパを!上手にならなきゃ!)」と思うことも多々ありました。


そんなスタンスだったから、理論と実践の関連付けが上手ではありませんでした。例えば、トランペットで全ての音階を演奏するだとか、楽譜に書いてあるその部分がどんな和声(コード)でできているのかなど、理論的アプローチができずに、吹きまくってばかりの頭の悪い練習と時間の浪費をしていました。


今になって思います。「もっと勉強しておけばよかった」じゃなくて「もっと関連付けていればよかった」と。


例えば曲を演奏するときに「なんかしっくりこないなあ」と感じてもその理由がよくわからず、「センスがない」とか「歌がね、歌が...」とわかったようなふりをして抽象的で受け売りな分析や単語ばかりを使い、具体的解決策を見出すことができなかったのです。


今思えば、その理由のひとつは「音程感」だったのだ、と思います。音程とは2つの音の距離です。「ドとレは2度」とか、そういう言い方をします。

そんなのは当時もわかってました。楽典の勉強を毎日していたわけですから。


でも、それが結局何なのか、ちゃんと考えたことがなかったんです。ペーパーテストの問題が解ければそれでいいとしか思ってなかった。


2度音程なら2度音程の歌がある。2度音程の音楽がある。それが短2度なのか長2度なのかで印象が全然違う。3度音程は2度音程と全然違う。

どう違う?こう違うんだよ!と頭の中で音が奏でられる。そしてそれを聴く人に伝えるために声に出して歌える。何が美しくて、何がおかしい音程感なのかを感覚的だけでなく理論的に理解できる。

これ、楽典と視唱とトランペットすべてのスキルが発動しないと実現しません。


声に出して歌う練習やレッスンというのは決してオペラ歌手を目指すためにやってるのではなくて、ピアノが奏でた音を声で歌うとか、楽譜に書いてある音程を理解して歌える(それを聴く人に伝えられる力を持つ)といったスキルです。そのためにコールユーブンゲンなどの教則本を使ったり、それ自体を試験課題にするわけです。

僕が受験した東京音大は新曲視唱と言ってその場で手渡された楽譜をその場で歌うというもの。スキル不足の僕は当時深く考えずに、「リズムを正しく」「音程を正しく」そして「ミスったら失格」みたいなことばかり考えていて、楽譜から生まれた音楽の存在も、それを相手に伝えようとする気持ちも皆無で、なぜもっと「これもひとつの音楽作品だ」と思わなかったのだろうと後になって反省してます。


専攻楽器が上手になるためには、楽譜を正しく読む知識を持ち、そこから音楽を感じ、作曲者の意図を読み取り、自分はどう演奏したいのか具体的に頭や心でイメージする。

そのイメージを楽器で演奏する際に「正しい」よりも「美しい」音程感で現実のものに昇華する(=楽器で演奏できる)。これはただプープーと楽器から音を出す時間ばかり割いていても実現しません。

しかも、管楽器は単音楽器ですから複数で演奏して作品を作り上げていくことは必須。そうなれば当然和声が存在しますから、和声聴音やピアノ演奏のスキルを身に付けることも必要です。


このようにして全部が全部、繋がり合い、関連して、高め合っている要素なのです。




なぜそれに気づけなかった高校生の俺。





荻原明(おぎわらあきら)




0コメント

  • 1000 / 1000