品行方正な芸人に魅力はない。ピエール瀧、新井浩文、勝新太郎。芸人はマージナルマンである。だから、常人に不可能な創造ができる。面白くもないエンタメは定義矛盾だ。品行方正でもやぶな医者は要らない。芸人も同じ。道徳が支配する国に芸術や文化は育たない。勿論犯罪を称賛しているのではない。
— 舛添要一 (@MasuzoeYoichi) March 13, 2019
芸術家はぶっとんでる、なんてことを言う人もいます。
確かに常軌を逸しているように見える芸術家はいます。
でもね、芸術家はマージナルマン(境界人)だ、なんて思うのは世間一般のよくある先入観です。
「芸術家」と言うと、耳を切り落としたゴッホや、あたまボサボサのベートーヴェンだ爆発した岡本太郎だと、目立つパフォーマンスや目立つ逸話を残した+後世に残る素晴らしい作品を生み出した人ばかりがクローズアップしますが、ちょっと待ってほしい。
芸術家ってホントにみんなそんな人ですか?
芸術と関係なくもともとそういう人だったとは言えないのでしょうか。もしかすると現代で言うところの精神医学等で何かしらの名前を付けられる人だったのかもしれません。そういった方って、ひとつの分野に長けているとか、他の人よりもセンシティブだったりするので、それが創造分野で発揮された可能性。
もしそうだとしたら、芸術に限らず、数学など他ジャンルに属している人でも同じようなことは起こり得るわけです。
これがまずひとつ目。
もうひとつは、そういうパフォーマンスをしている可能性。
テレビに出てくるいわゆる芸能人なんて特にそうですが、世間に周知するために目立つ振る舞いやユニークな衣装、言葉、テーマカラーなどを用意している人が多いです。林家ぺーパー子さんと言えばショッキングピンクとか、楳図かずお氏は紅白のボーダーとか、チコちゃんはボーっと生きてるし、林先生は「今」だし、ダリといえば「あのヒゲ」だし。芸術家や役者は、その人自身が商品なのでそういう感覚を上手に使った「売り方」をする場合も多いのです。
そして、いかにも政治家が考えそうなのが「普通の働き方」をしていない、と思う点だと思います。ひとつの会社に勤めて定年までお給料もらって定年退職するという化石化し始めてるこの発想が未だ根強く、そうじゃない生き方をしている人は普通じゃないと思ってしまう可能性。
それと「反社会的行動」が合体すると、舛添さんみたいなこと言い出しちゃうのかもしれません。
芸術とは
芸術というのは「フィクション」を楽しむものです。
現実では実現できないこと、それは科学的、法律的、いろいろあると思いますが、頭の中で妄想するぶんにはそれらは自由にそして簡単に実現でき、何をしても犯罪になりません。
鳥のように空を自由に飛び回ったり、異世界に召喚されて魔王を倒したり、未来や過去に行ったり、片思いの人と付き合えたり。人を殺めたり。
妄想は自由です。罪に問われることはありません。
そうした自分の中にある願望、欲望、想像、考えなどを第三者に伝えるために創造物を生み出す行動を「芸術」と呼びます。
ファンタジックな絵や、SF小説など絶対に現実にできないこともあれば、イケメン俳優がキュンキュンしちゃう恋愛モノの映画など非常に現実味を帯びていること(もしかしたら本当に自分にも起きるかもしれないと感じさせるもの)もあります。しかしそれらはすべて(現時点では)「非現実」。妄想と現実の境界線は絶対に存在します。
したがって、妄想が現実という境界線に踏み込んでしまったらその瞬間、内容によっては罪に問われる可能性があるわけです。
ホラー映画の監督が、現実味を求めて本当に人を殺めているシーンを映画に使ったら当然犯罪です。それをしてはいけないのがわかっているから、あれこれ工夫をしてリアリティを出しているわけです。リアリティはリアルではありません。
ほとんどの芸術家、表現者は妄想と現実の境界線をきちんと見据えているからこそ、その人たちの創造物に対して第三者(聴衆や視聴者)が安心して楽しめるのです。むしろ芸術の世界にいる人のほうがその境界線をよく理解していると思うし、だからこそ器用な芸術家や表現者はそのラインギリギリにいることができるので、そんなラインギリギリにいる必要のない一般的な人からすると奇天烈に感じて舛添さんのように「芸術家とはそういうものだ」とか勘違いしてしまうのかもしれません。
よって舛添さんは境界線ギリギリにいる芸術家のパフォーマンスにまんまとはめられているのです。
芸術家、表現者は、とても常識人ですよ。
芸術家や芸人が常軌を逸してなんかいないし、ましては、そうじゃなきゃ芸術家になれないなんてありえません。芸術と犯罪を一緒にしないでいただきたい。
荻原明(おぎわらあきら)
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