人や地域、環境によって大きく変わると思われるので何とも言えませんが、僕が学生の頃は「〇〇門下」という言葉が大変よく使われていました。
〇〇の中には先生の名前が入ります。
当時の僕がいた頃の音楽大学では、個人レッスンを担当される先生が決まっていて、僕は津堅直弘先生に見ていただいていたので、「津堅先生門下」になります。当時の東京音大にはトランペットの先生が他に2名いらっしゃったので、同じトランペット専攻生であっても、門下が違う人がいるわけです。
だからと言って派閥があるわけでも仲が悪いこともありませんが、「〇〇門下生おさらい会」とか「〇〇門下の飲み会」などが行われると、なんとなく目に見えない境界線のようなものがあり、別に誰が誰先生の飲み会に参加しようが構わなかったのですが、なんとなく「自分は〇〇門下だから」という理由で参加しない、それが結局スタンダードな形になっていました。
今の東京音大のトランペット専攻は全員の先生にレッスンを受けられるので、とても充実しているな、と思います。いろんな人のいろんな考えを直接手に入れられるのは、音楽の「引き出し」をたくさん手に入れることができるので、素晴らしいことです。
これが僕とその周りの話。
ここからは僕と無関係な内容ですが、「門下生」ということをやたらと誇示してくる人や、ネームバリュー、肩書きなどに影響を受けやすい人がたまにいらっしゃいます。
「僕はね、〇〇先生のレッスンを受けたことがあるんですよ」とか「私は〇〇さんと共演したことがあるのよ」という言葉はこれまでに本当にたくさん耳にしました。〇〇さんの中には、有名オーケストラの方だったり、世間的によく知られている奏者の方だったりします。
この会話は、「私は〇〇さんとの距離が近いんだぞ!すごいだろー!」というスネ夫的な誇示なので返し方が難しい。
まあでも、これは話題として楽しく展開できればまだ良いわけですが、問題なのが、
個人崇拝。
自分が師と崇める奏者の意見が絶対で(ここまでは構わない)、他の人の意見を批判する人。これが大変にタチが悪い。こういった簡単に盲信してしまう人は、悪質な宗教にお金を取られないように気をつけてほしい、と心配してしまいます。
音楽は様々な考えやアプローチがあって、それぞれに頂点を目指そうと切磋琢磨しているわけですから、いろんなルートから山頂を目指しているのは当然で、自分以外のルートの人たちを批判する理由も権利も存在しません。
なのに、「〇〇先生(崇拝している教祖)がこう言った」とかで他の人の意見を足蹴にしてしまったら、せっかく手に入れられるチャンスを自ら逃してしまうのです。これはもったいない。
いろんなアプローチがあって、それを知り、あわよくばそれも自分のものにできるって貴重ですよね。
また、そうした個人崇拝者は肩書きにめっぽう弱くて、ナンチャラフィル首席とか、そうしたものを盾にしがちです。
例えば、2人の料理人がいたとします。それぞれが高い志を持ち、それぞれに研鑽を積み、技術や味を極めていったそのひとりが、超有名レストランの料理人として働き、もうひとりは街に自営のレストランを出店したとして、この2人に優劣を付けられるでしょうか。
それぞれにプライドやポリシーを持った結果であるなら、2人とも素晴らしいと思うはずです。
しかしそれを味も確かめずに、肩書きだけで「あの有名なレストランの料理人」というだけで優劣を付けてしまっては、自分が損をするだけです。
肩書きやネームバリューが「箔」であること、それだけ実力が認められてその地位にいることは否めませんが、「箔」がない人がそれよりも劣ると決めてしまうのは問題があると気づいて欲しいですね。
まずは味見をして、それからです。ただし味という感覚も「好み」がありますから、本当にまずかったらしょうがないのですが、好みの範疇だったら批判はするべきではありません。
そうした冷静な判断力を持っていることは、結局は自分へのプラスへと繋がっていくわけです。
荻原明(おぎわらあきら)
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