音楽的常識

「常識」という言葉、以前はあまり好きな言葉ではありませんでした。


なんというか、こう、「俺は常識に収まるような人間にはならないぜ!」的な感じと言いましょうか。斜に構えてたんですよね、まあ生意気な。素直じゃないのは相変わらずなのですが。


今になって思うのですが、常識を理解していない人間が「常識に収まらない!」と言うのって幼稚というか滑稽です。常識と常識じゃない境界線を知るためには、まずは何が常識なのかを理解するのが先ですから。


音楽でもこれは同じで、音大生の頃はずっとこんな調子だったから、演奏がフラフラしてましたよ。具体性がないというか、口ばっかりというか。


"note"というサービスで「トランペット技術本」という記事を隔週火曜日アップしておりまして、先日「速度変化」についての原稿を書いている時に、テンポというのはそもそもメトロノームのカチカチに拍を嵌め込んでいく行為や発想ではなく、メロディや音楽そのものがすでに持っているものである、と書きました(来週火曜日公開)。

そうした発想から生まれる音楽は、楽譜に指示が書いてあるなし関係なく、その音楽がもっとも自然に表現されれば、テンポが揺れるのが自然だしそれが当然、という発想に至りたいものです。


だからといって指定されたテンポを完全無視したり、やりたい放題グラグラにテンポを揺らしてしまっては作品が台無しになります。第一、そんなの聴かされてお客さんはたまったものではありません。


ではその線引きとは何か。


これが「常識」だと思います。


言い換えるなら、ここでの常識とは「多くの人が『良い!』と感じてもらえる範囲」と考えます。

これはお客さんに媚を売るわけでも、「良いでしょう!」と押し売りをするわけでもありません。それらの範囲は世代や時代、場所によって微妙に変わるかもしれませんが、多くの人間が良いと感じる範囲ってあると思うのです。決して明確な存在ではありませんが、多くの人と共感できる範囲で自由に演奏することが大切だと思います。


そのためには生でたくさんの演奏を聴くしかありません。だって、自分が「良い」と思えること、その空間にいる多くの人が「良い」と感じるのは、その場にいるからわかることです。

コンサートに行く人が少なくなってきたと聞きますが、音源では得られない大切なものが演奏会には数多く存在します。可能な限り積極的に行くべきだと思います。




荻原明(おぎわらあきら)

0コメント

  • 1000 / 1000