レッスンを受ける、ということ(後編)

昨日掲載したブログ記事「レッスンを受ける、ということ」があまりにも長くなったので2回に分けて書いております。昨日の記事はこちらです。




レッスンは発表会

僕はよく「レッスンは発表の場」とか「レッスンはある意味本番です」と言います。


これは、定期レッスンの方に対して言う言葉で、前回のレッスンで手にしたおみやげ(昨日の記事参照)を食べて、自分の栄養にし、一歩を踏み出せたことをレッスンで披露してもらうものだと思っているからです。


ある意味レッスンはこれから行われる何かの本番のために受けるものではありますが、レッスン自体が「前回のレッスンから成長した自分を披露し、評価されるひとつの本番」であると思って欲しいのです。そうした緊張感のある空間で、自分の今の実力を理解して欲しいと思っています。

って、別にそんな大それたことではなくて、練習の成果が発揮できて、「すごい上手になった!良い!」と言われたほうが気持ちいいでしょ?ってことです。



ところで、みなさんの中に子どもの頃に音楽の習い事をしていた方はいらっしゃいますか?

例えばピアノのレッスン。

先生が「じゃあ次までにここまで見ておいてね」と、いわゆる「宿題」を出されます。

その後が運命の分かれ道。学校の勉強やら友達と遊んだりゲームしたり塾へ行くなど何かと忙しい日々の中でついついピアノの練習を後回しにしてしまうと、あっという間に次のレッスンの日になります。慌てて前日の夜にピアノの練習をしてももう遅い。急ごしらえで作ったものは先生はすぐにわかるものです。

その結果、曲は一切進まず、来週も同じところを弾く宿題が出されます。

なんだかテンションが上がらない、いつも同じところばっかり弾いてて飽きちゃった(確かに弾けてないんだけど)。

そしてだんだんイヤになってきて辞めちゃう。


こんな結末のお話、よく聞きます。

この話の場合先生は(多分)悪くないですよね、できていないのに進ませてしまえば近い将来行き詰まるのが見えていますから。やってこなかったことに過剰に怒りをあらわにしたり、宿題の量があまりに多すぎて生徒さんのキャパを超えていることに気づかないとか、無理させすぎる先生は問題かもしれません(場合による)。


しかし結局は、宿題をこなしていく努力を怠った生徒さんが問題なわけです。音楽のレッスンは、やはりジムやヨガのようにはならないのです(前回記事参照)。



メソッドが嫌い

話は変わりますが、世の中の習い事には「○○式」とか「○○メソッド」と名のつくものがたくさんあります。


はっきり言って嫌いです。


こうしたものは、他と差別化するために「商品化した商品名」であり、フタを開ければ結局他と同じなのです。でもそれに気づかれないように、あたかも独自で編み出した必殺技のように見せるその巧妙さが、新興宗教や洗脳っぽくてとてもイヤなのです。


実際にトランペットや音楽の分野でのそうした商品をいくつか確認しましたが、やはり特別なことはまったく書いていませんでした。それどこか論理が破綻したり矛盾している点もあり、詳しい人がツッコミを入れたらどんな反応するんだろうな、とワクワクします。

一時期よりだいぶ減りましたがネット上では特にそうした商売が蔓延していて「一週間で絶対うまくなる!」とうたってるサイトもよく見かけたものです。全員が一週間でうまくなるはずがないだろ、と。

部活指導の外部講師にもメソッド使いは多いイメージですね。コンクール時期になると、藁をもすがる気持ちで顧問の先生が高額なゴールドを支払って召喚するのです。確かにその黒魔術メソッドは効果があり、あっという間に上手になるのですが、翌日になると魔法が解けてしまうというオチ。コンクール直前に外部指導者を呼びたがる習慣はここから生まれているのではないか、と推測します。


音楽ってそういうものじゃないのにね。


「○○式」「○○メソッド」というレールを敷いておき、来る人来る人をその上に乗せてしまえば教える側は大変楽であり、その中の数人は偶然か相性の良さかわかりませんが実際に上手になります。すると広告塔になるわけです。「私も上手になりました!」

そうした方は同時にメソッド使いの信者になるので、一石二鳥。上手にならなかった人は「おまえが悪い。だって上手になってる人が実際にいるじゃないか」と責任転嫁できるのです。おお怖い。


なので、僕はメソッド商品は絶対に作りません。

正しい情報を正しく伝えるだけです。からだの使い方などを説明するときにも、あくまでも情報として伝えるために例えば「僕の場合はこうやっています」など必ず一言添えます。それが生徒さんに合うかどうかはやってみないとわからないので、絶対強制させません。


一般的な情報や、知識を伝えて、僕はこうやっています、その結果こうなりました、という参考例をおみやげに手渡すところで僕の役割は一時終了なのです。

しかし強制させないとなると「生徒さん自身の方法」を次のレッスンまで試行錯誤してもらうしか方法がありません。

そして次のレッスンのときに、どうだったのか、どんなことを得たのかなどを伝えてもらってさらに次につなげる、という流れになるわけです。


そういった意味では、「自分の中には自分にだけ通用するメソッドが生まれる」と言えるのかもしれませんね。他の人には理解してもらえない自分だけのメソッド。これを手に入れることがある意味レッスンの目的なのかもしれません。



「練習」を広い視野で

レッスンとレッスンの間に「練習」をする、と話ましたが、音楽教室という一般の方が趣味で習いに来ていらっしゃる空間に長いこといますから当然わかっています。


お仕事もお勉強も家庭のことも、音楽より優先しなければならないことがたくさんあります。


重々承知しています。だから「絶対に練習してきなさい!!」など決して思っていません。

でも同時に「何もしてこなくていいですよ」とは思っていません。


おみやげを手渡して、その場で捨てられたり、家に置いて味見どころか中身を見ようともしない人に対しては、当然僕自身のテンションが萎えてしまいます。レッスンでは誰に対しても精一杯充実した時間になってもらいたいから手を抜くつもりは決してありません。いつもできる限り上質なおみやげを手渡す努力をしているつもりです。

でもその一生懸命用意したおみやげを捨てられたり見向きもされなければ、良くないとは思いますがやはり萎えてしまいます。人間だもの。

それが続いてしまえば「どうせ今回も...」と懐疑的になってしまう自分がいるのも正直なところです。


おみやげを開けて、中身を確認し、しっかりと自分の栄養にして次のレッスンまでに一歩踏み出す努力をするのは、レッスンとしての理想の形ではありますが、それをすべて行う時間や余裕がないのであれば、ほんの少しでもいいのです。何かしらのアクションをしてくれさえすれば。


例えば、朝5分早く起きて5分トランペットの何かに費やす。

例えば、通勤時間をトランペットレッスンの何かに費やす。

例えば、寝る前の5分をトランペットの何かに費やす。


これでも十分だと思うのです。もしかしたら、「次のトランペットレッスンのことを考えてみる(成功するイメージを持つなど)」だけでも良いかもしれません。

忙しいけど毎日1時間トランペットを吹くんだ!寝る間を惜しんでカラオケボックスに行くのだ!とか、そんなことを繰り返していたら逆に疲れてトランペットが嫌いになるかもしれません(個人差があります)。


ですから別にそんなに肩肘張らなくて良いので、せっかくレッスンを受けているのだったら、ちょっとずつでも前にすすみましょう。そのためにはレッスンのときだけ楽器を吹いていても絶対に上達しないし、結局は自分自身が工夫したり考えたり練習したりとほんの少しの努力や時間の確保が絶対に必要になってしまいますよ

というお話を2回に分けて書いてみました。


このブログで書くことなのかわかりませんが、どうしても書きたくなったので。





荻原明(おぎわらあきら)

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