レッスンを受ける、ということ(前編)

世の中には「習い事」がたくさんあります。


きっとみなさんも習い事に通われている方、過去通ったことがある方、もしくはお子さんが通われているといった方も多いことでしょう。


ジムやヨガのようにスケジュールが空いたときに行って汗を流して「あー頑張った!」「スッキリした!」という習い事もあります。肉体的な変化はどうあれ、少なくとも努力した経験が清々しい。


さて、習い事と言えば僕は習い事の「教える側」の人間です。とは言え、ジムのインストラクターやヨガの先生でもなく、音楽のレッスンをする人。


一口に「習い事」と言っても内容が違えばそのアプローチも全然違うわけで、音楽は音楽の独特なレッスンのプロセスがあります。今日はそんなお話です。



おみやげ

僕は音楽のレッスンは「おみやげを手にする」時間だと思っています。

わかりやすいように「食べられるおみやげ」にしましょうか。


レッスンに来ると、それまで知らなかったことをたくさん知ることになります。それは奏法面(技術)もあるし、先生の奏でる音色を間近で聴いた刺激や具体的な目指す方向性、そして今の演奏に対しての評価や改善点の提案。レッスンではこうした「おみやげ」を手にすることができわけです。


しかしこれはまさに「手にした」だけの段階。まだ両手に抱えている状態です。


レッスンでたくさんのおみやげを手にした生徒さんは、この先それぞれ異なる行動に出ます。ここからが運命の分かれ道。


例えば、おみやげをレッスンが終わった直後すぐ食べる方

僕が講師をしているプレスト音楽教室は、会員(定期レッスン受講生)になると防音室が無料で使えるようになります。レッスン後に忘れないようすぐ練習をする方もいらっしゃいますし、レッスンで学んだことを帰りの移動中などにまとめる方や、録音したレッスンを聴く方もいらっしゃいます。これらはおみやげをその場ですぐ食べる方です。残しておいて以下の流れに繋げる方も非常にに多いです。


帰宅してから(後日)おみやげを食べる方

多分このパターンが最も多いと思います。少しずつご自身のスケジュールやペースに合わせて時間をかけて食べる。


おみやげを食べるというのは、レッスンで得たものを「自分のものにする」ことです。

そうすることでレッスンで得たものが自分の栄養となり、次へ進むための一歩を踏み出すことができるわけです。


おみやげに話を戻します。レッスンをしていて残念だな、と思うパターンも少なくありません。


例えば、もらった先からポロポロ落としてしまうパターン。ただこれはレッスンをする側にも問題があって、きちんと手渡せていなかったり、それを確認していなかったり(できていなかったり)、生徒さんのキャパを超えた分量のおみやげをいっぺんに手渡してしまうこともありますので、僕自身も反省することは多いです。とはいえ少なすぎては不満が残る。内容の濃さにもよりますし、生徒さんのレベルや向き不向きもあるので、おみやげの配分は大変難しいところです。


他には、おみやげをいつまでも開封しない方

おみやげをもらったことは理解しているし、きちんと持ち帰りはしたけれど、一度も開封しないまま次のレッスンを迎えてしまうパターン。場合によってはレッスン毎にもらうおみやげを一切開封しないまま(でも捨てない)積み上げてしまうため、昔のものがどこにあるのかすらわからなくなったり、どこから手をつけていいのかわからなくなることもしばしばです。



おみやげはあくまでもおみやげですから、レッスン中にそれを食べる時間は存在しません。レッスンの後に自分で食べる時間を確保するしかないのです。

この点が、ジムやヨガとは大きく違うところ。



なぜレッスン中におみやげを食べられないのか説明しましょう。


みなさん、自転車に乗れるようになるまでのことを思い出してください(大昔すぎて忘れた方もいらっしゃるかもしれませんが)。

最も多いのは子どものころにご両親やご兄弟などから手ほどきを受けた、というパータンではないでしょうか。僕もそうでした。


いちばん最初は自転車に乗るための説明やアドバイスをもらいながらフラフラ乗っては転んでを繰り返したことでしょう。フラフラするとお父さんなどから「前を見て!」とアドバイス。

転んだら助けてくれながら「ペダルをこぐときにはね、」などアドバイス。


そうしたたくさんの言葉をもらいながら何度もチャレンジしていくと、知識や方法をたくさん得た「頭でっかち」状態にまずなります。


どれだけ知識があっても、それを「感覚を身につける」段階までグレードアップできなければならないので、乗りこなすにはまだ時間が必要です。


頭ではわかっている。でも乗りこなせない。そんな頭でっかち状態のときにお父さんから、


「もっとスピードを出して!」「下を見ない!」


と言われると、もう情報は十分に持っているために苛立ち、つい、


「わかってるよ!」「うるさいな!黙ってて!」


などと声を荒げてしまうのです。

本人もお父さんも一生懸命頑張っていて、目指すところも一緒なのに、結果がまだ出せないだけで空気が悪くなってしまいました。


ですからこの場合、本人がある程度の知識を手にしたらお父さんは一旦退却して、ひとりでじっくり考えさせ、自分の運転を見つめ直して再び実践し、失敗を繰り返して乗りこなせるように影から応援してあげるほうが良いわけです。絆創膏と消毒薬と美味しいごはんを用意して。



話を戻します。

トランペットも自転車と同じように知識だけでは絶対に演奏できません。しかし、知識がないと方向性も目指すところもわからないので、それでは何をしていいのかすら見出せません。


そこでまずは方法を知る時間が必要になります。どんな練習をし、その方法が実現したとき、どんな結果(例えば音色や演奏表現など)が生まれるのか、その過程で生まれた目標とともに一時的に「頭でっかち」な状態になる、それがレッスンの時間です。


その頭でっかち状態を解消するためには、自分自身と向き合い、ひとつひとつ消化していく試行錯誤の時間が絶対に必要になるわけです。


もしもその自分自身と向き合う作業をレッスンの時間に行った場合、先生はおみやげを渡すことを常に目的としているので、試行錯誤中にもああでもないこうでもない、それは良いそこはもうちょっとこうしたほうがいいんじゃない?ああそれだとうまくいかないと思うから、じゃあこの小節からやってみましょうか、サン、シー、音色は良かったけどアタマのタンギングのクオリティはもっと舌をこうやって、良い?僕のやってる方法を見ていてくださいね。


「うるさーーーーーい!!!!!!」
「ちょっと黙ってて!」


ほら。言わんこっちゃない。

じゃあ黙ってますよ。


パーーー♪

プーーー♪

ドレミファソ〜〜♪



先生「...........................................」


先生の心の声「(あれからどれくらいの時が経ったのだろう。何も声を発せず、思ったことも言えず、ただただトランペットの練習をしている人を前にしてじっとしているこの時間はいったい何なのだろうか。今日の夕飯は何を食べようか。)」



もうわかりますよね。レッスンという時間の中に生徒さんの練習時間は存在できないのです。それを認めてしまうことは、講師として仕事を放棄したことになってしいます。



大変長くなってしまったので、この続きは明日書きます。

(つづく)





荻原明(おぎわらあきら)

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