先に「吹奏楽コンクール課題曲トランペットパート解説2019」の記事を書き終えてしまってからハイノート本の出版に集中しよう、とかそんなことずっとやってるせいで毎日ハイノート本編集までたどり着かない荻原です、おはようございます。
最近思うのが、自分ひとりのキャパを超えているのではないかという点。ちょっとそろそろ整理しないとダメかもしれない。
ともかく、今年の課題曲トランペットパート解説は書くと言った手前書きますが、そのためにスコアを見ていてフツフツと思い出してきました。
...楽譜の書き込み...
試しに「吹奏楽 楽譜の書き込み」と検索したら出てくる出てくる。呪いみたい。目が回って吐きそう。ちなみにこの画像の上から2段目一番左、あれは僕が中学生か高校生だかのときのものです。ふふふ、お・バ・カ・さん。
こんなまとめもありました。
コンクールシーズンになると現れるこれら読めないパート譜。書き込みの上に書き込みをして、さらにご丁寧にカラフルにペンを使う書き込み。
毎年何度もいろんなところで言ってますが、楽譜に書き込みまくって音符が見えなくなるまで真っ黒にするの、もう本当いい加減やめにしませんか?
そう言うのにはきちんとした理由があります。
まず、その真っ黒になって音符がまったく見えない楽譜についてレッスンで
「この音符をグルグル囲ったのはなぜ?」
「...さあ、覚えてません」
「美しく!」と書いてあったので「美しいって、この場面はどんなイメージ?」と聴いたら「...ウツクシイ...うーん、わかりません」とか言っちゃうわけですよ。
おおかた指揮者から「その場面はもっと美しく演奏して欲しい」と言われたのでしょう。それって、「その場面は美しく演奏すべきだ」ではなくて「あなたの演奏に美しさを感じない」という意味だったと思われます。だって音楽って基本的には「美しい」場合が多い。美しいと言ってもその解釈は多岐にわたるので、具体的にどうだとはここでは言い切れないのですが、でも美しいものである可能性は限りなく高い。
こんなことばっかりなんです。そもそも楽譜の書き込みというのは、その楽譜に書かれていない「追加情報」、もしくは浄書段階までで判明した「修正」、あと最近は誰でも楽譜がPCで作れるからこそよく出会うドイヒーな浄書をなんとか演奏に差し支えないレベルにする面倒な修正などの範囲に限定すべきであり、ああしろこうしろと自分に対する諭しを書き込むものではありません。
例外として、プロの世界などで短時間で音楽を完成する場合、場面が大きく変化するシーンの箇所に、1人だけ飛び出したり想定と違うことをしないようメガネマーク(指揮者を見る、という解釈が一般的)などを書き込み、注意喚起する場合はあります。でもそれも大変限られたものです。「指揮者見る!」とか書かないですからね。
全然違う話だけど、吹奏楽ってずーーーーーーーーーーーーーーーっと指揮者見てる奏者いるけどあれ変だし怖い。カルトな宗教団体みたい。指揮者の仕事、演奏者の仕事、ちゃんと理解させることも指導者の役割だと思うのです。
そもそも音楽は、聴く人がいて初めて成立するもの。そのための道具である楽譜は、作曲家が生み出した作品を演奏者に伝えるための手段であり、その楽譜から演奏者は聴いてくれる方へ「伝える何か」を発信する。その伝える何かはそのつど心の中から溢れてくるものであって、楽譜に直接的に「きれいに吹く!」とか「やさしく!」とか書いて自分に言い聞かせるレベルではないわけです。
ましてや「ピッチ!」「テンポ!」「音程!」など、どのような場面であろうが当然意識すべきもの(楽曲を演奏する前段階に意識すべきもの)を楽譜に書いて何になると言うのか。「アクセント!」と書いてあるところにはちゃんと音符にアクセント記号が付いている。一体どういうことなのか。
要するに、楽譜に書き込む必要性というのはほとんどの場合、ないのです。
ではなぜ部活動を中心とした若い人ほど執拗に楽譜へ書き込みをするのか。
それは対外的アピールと自己満足と思われます。
「私は指揮者や先生の言うことをこんなにもきちんと聴いているのです」
「私はこの曲に対してこんなに思慮深く、熱心に練習を積み重ねているのです」
「いやあ、練習したなあ、頑張ってるなあ自分」
学校の授業で先生が言ったこと、黒板に書いたことを一字一句逃さずノートにカラフルに書き込むあの風習が楽譜にまで及んでいるのでしょう。ノートは本来自分の勉強の効率や成果を上げるためのものですが、ノートに書き込む行為そのものが先生の評価、自己満足へ向かう傾向になりがちですから、楽譜も真っ黒になってしまうのでしょう。
でも楽譜は授業のノートと用途が全然違うのです。
その記号の羅列から、心に伝わる音楽を生み出すわけで、楽譜には100%の完璧な情報が書かれているわけではありません。それはどんなに書き込んでも出せることのない「イメージ」「心」であり、しかも作品を追求するうちにそのイメージも心も成長し、新しい見方になるなど、自分自身がアップデートされていくものですから、そういった意味では楽譜の書き込みは過去の産物になり、邪魔な存在にもなるわけです。
簡単に言えば「テンポ!」とか書いた時はきっと指揮者から「おいそこ走るぞ!」とか言われたわけでしょう。でも練習を重ねていくうちに、当たり前のようにテンポ通り演奏できるようになってもずっと楽譜に残っている「テンポ!」という文字。邪魔でしょう。
次にこの楽譜を使うとき、指揮者が同じだったとしてもその指揮者だってアップデートされている(と願う)わけですから、まったく同じことを言うとは限らない。ましてや自分自身だってきっとアップデートしている(と願う)わけですから、その書き込みが邪魔で邪魔でしょうがなくなるかもしれませんよ。音楽って同じ作品であってもその時その場面で違う作り方をするのが普通です。
そもそもですね、楽譜というのは次に演奏する人に託すわけですから、真っ黒に塗りつぶしちゃダメじゃないですか。読めないんだから。
え、コピー譜だから、大丈夫、だって?
お後がよろしいようで。
荻原明(おぎわらあきら)
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