finaleと編曲

僕もfinaleを使って編曲を(たまに)しますが、最近はパソコンがあればだれでも出版譜(風)の楽譜を作成できるようになり、そこまで音楽に詳しくなくても編曲やオーケストレーションもできます。なぜなら「プレイバック(再生)機能」があるから。


別に僕も専門的に勉強をしたわけではなく、あくまでも長年の経験によるものなので偉そうなことを言える立場ではありませんが、編曲やオーケストレーションの大切なところは「一貫性」と「音の重なり」だと思っています。


編曲、オーケストレーションと言えばモーリス・ラヴェル。例えばムソルグスキー作曲「展覧会の絵」、そして「ボレロ」。


編曲をする時にやはり一番気にしているのは、音と音の組み合わせによってどのような響きになるか、というイメージです。これはパソコンの再生では全然わかりません。

また、演奏者でもある強みから、楽譜にこう書くとどのような解釈をすることが多いのか、という発想から記号を書き入れていくこともあります。あまり制限させすぎずに、しかし自分のイメージを理解してもらえるようにする。そのためには「同じフレーズなのにこっちはアクセント、こっちには付いてないよ」みたいなことが起こらないよう、一貫性を感じさせることが大切だと思います(一貫性のなさを意図的に行う場合は別)。


さてなぜ編曲のことを書いたか、と言いますと、今年の課題曲を実際に演奏して大変強く感じたことが、


「これ、パソコンで再生した時にきちんと聞こえる楽譜だ」


という曲が、どれとは言いませんがあるのです。ダテにfinale20年使ってません。


例えばアクセントですが、finaleでアクセントを入力すると単純に音量が大きくなるんです。

そして、音符が細かくなると音が聞こえにくくなるんです(選択した楽器にもよる)。だから16分音符は8分音符に比べると聞こえにくい。そこで16分音符だけにアクセントを入力して再生すると、あらビックリ均一に聞こえるんですね。


それがそのまま入力されている。どの作品とは言いませんが。多分そう。


そしてfinaleで編曲したときに陥りやすいポイントは、「縦に作ってしまう」という点。タテとは、同時に演奏する複数の楽器のことで、一方「横」というのはひとつのパートの時間的経過を指します。

作曲家やそのレベルの方は、その縦も横も意識した上で作曲や編曲をされていると思うのですが、僕も含めてそこまでレベルが達していないと、縦の構造に対する意識のほうが強くなりがちです。

ようするに、再生(プレイバック)したときにちゃんと音楽ができているのかを逐一確認しながら進めていかないと作れないのです。だから8小節なら8小節を完成させてから、次の8小節にとりかかる。


しかしこの作り方をすると、1つのパートの流れに一貫性がなくなったり、もしくはずっと変わり映えのない作風になることが多いのです。しかしそれはパート譜にしたときに初めてわかることが多く、「1stトランペットに休みが全然ない」とか「ホルンはずーーっと全音符だ」とか「練習番号をまたいだ瞬間に音が異常な飛び方をする(そこで作業が一旦中断されたか、何も考えずコピペしたか)」などの切り貼り感が露骨に出ていることもあります。


和声に関しては、やはり最も基本的なオヤクソクがあって、「この音を担当したら、大概次はこの音に行くよね」というのがあります。これは、ルールというよりもそれが一番自然だから。自然、というのは(感覚的)予測ができるということであり、演奏していて負担がない楽譜、とも言えます。負担がないからミスも起こりにくい。そんな吹きやすい楽譜から生まれてくる作品には余裕が生まれます。

だから原則はやはり和声のルールを知り、尊重して作る姿勢が大切です。もちろんその上で裏切っていく面白さがあって良いのですが。


しかし7和音を多用すると、それが少し難しくなります。単体で音を出すことしかできない管楽器は、ピアノのような7和音もしくはそれ以上の積み重ね音を作るのがとても難しいので、そうした音を担当している奏者は非常にわかりにくい音の世界をさまよう可能性が出てきます。

しかしfinaleのプレイバックではそんなことありません。9和音だろうが11和音だろうが「それっぽく」再生してくれるわけで、このギャップも理解しておかなければなりません。


だからやたらと「オシャレ」に作っても、それが吹奏楽で同じ雰囲気を出せるとは限らないということです。ましてやエロっぽksgaiufhg...





荻原明(おぎわらあきら)

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