「努力」という言葉をどのように捉えていますか?

「努力」という言葉。僕は世代的な影響なのかどうしても「辛く苦しい状況に耐え、乗り越える」そんなニュアンスが含まれていると思いがちです。もちろんそうした努力が必要な場面も多いので、全否定するつもりはありませんが、問題なのは「そうする必要もないのにわざわざ辛い方向を選択する傾向」です。


最近になってようやく問題視され始めた「残業している人ほど仕事している」という風潮。残業代払うお金がもったいないという発想から気づいたというところが何とも情けないのですが、気づいただけマシなのかな。

大人がそんなだから子どもへも「長く机に向かっている人=勉強している」とか「長時間行うほど熱心な人であり、成果が出る」という風潮がありますが、時間と結果が必ずしも比例しないのは、すで多くの人が気づいていることです。


音楽でもよく話題になりますよね。一流の音楽家へのゲスなインタビューでは必ず「幼少の頃から毎日◯時間練習をしていた」という言葉。


まあ、そういうことを否定するつもりはありません。確かに必要でもありますから。

だから、勉強や練習は1時間でいいのか、と言われればそれは「中身」の問題になるわけです。

ノー残業が話題になった最初の頃、「それじゃあこれまでと同じ量をこなせないじゃないか」と言った人のほとんどは、「同じ働き方で仕事をしたら」という発想から抜け出せていません。

時間を短縮してこれまでと同程度、できればそれ以上の成果を上げるのであれば、当然「効率性」について考え、実行しなければ不可能です。ですから、残業できないことでブーブー言ってるいる人の多くは、仕事効率に対する工夫をまったく考えていないか、最初からキャパオーバーした仕事量を(理由はわかりませんが)こなしている人です。


僕自身も音大受験生から音大生の頃は、頭おかしいんじゃないかというレベルの練習量でした。特に音大生のときは門が開く7時とかに一番乗りで入って、21時の追い出されるまで授業と昼ごはん以外は全部楽器を吹いている時間でした。


でもね、全然上達しなかったんですよ。


それは、習慣や意地、頭を使わず感覚と根性だけで演奏し、集中力がないまま惰性で楽器を吹いていたため、工夫しようとしなかったからです。


だから僕よりも練習時間が短いみんなのほうがよほど上手に演奏し、そして成果を出している。


今のほうがよほどすることが多く、自分へ向けたいわゆる「練習」時間は何か他のことを犠牲にしないとほとんど取れません(ウォームアップに充てる1時間は絶対に毎日確保していますが)。でも今のほうが成果を感じるし、積み上げている感があります。


部活動も短時間で成果を出すことが求められるようになってきました。

今までのような非有効率的な練習や、そもそも意味のないメニューなどを排除し、的確かつ効率的に今まで以上の成果を出せるためには、その知識をもった指導者が必要です。

そうしたスキルを持った新しい人材を確保するか、これまでずっと関わってきた指導者自身がアップデートするための努力や研究をしなければならないわけで、そのへん大丈夫なのでしょうか。


学校が最も苦手とする変革、アップデート。惰性では通用しないところまで来てしまいましたよ。



「努力」とは、これからの時代「工夫」であるべきです。




荻原明(おぎわらあきら)

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