「今年受験なので」
という理由でいろいろなことを中断、終了させてしまう風潮が世の中にはありますよね。習い事や部活、ゲームやテレビなどの娯楽、もう何でも。
これは往往にして、受験生自身が「拙者は試験に合格するためならばすべてを捨てる覚悟でござる」
とか言っているのでなく、ほとんどの場合親御さん。
先日ブログに、成果を上げるのは短時間で。努力は工夫であり、効率性である。という話を書きました。
受験勉強などまさにそれで、1日300時間机に座って問題を解いていたからと言って、必ずしも成績が上がるとは言えないわけで、それよりも効率性を重視した進め方の工夫をして1時間猛烈に集中する本当の意味での勉強を積み重ねていくほうが成果は出るわけです。
そもそも、いろいろなことを中止、終了させてひとつのことだけに絞るその発想は昭和戦時中の教育「欲しがりません勝つまでは」の精神そのものであり、令和を目前に控えたこの時代になってもなお昭和的発想から抜け出せない古くこびりついた悪習慣に他ならないわけです。
きちんと成果の上がる勉強を短時間で効率的に行い、趣味のゲームや楽器演奏などをして何が問題なのか。目的は果たしているわけです。受験生が遊んで何が悪い(結果を残していれば)。
それ以上に、成果の上がらないダラダタした勉強を一年間続け、その非効率的な時間の使い方で自分が好きな趣味ができないことに何のメリットがあると言うのか。
そう考えると、この発想自体が本人が最も理想とする人生ではないことはすぐにわかります。結局、勉強漬けにさせることによって親御さんが安心しているにすぎないのです。それには中身が伴っていなくても別によくて(レベルの高い学校に進学してくれたら、それはとても嬉しいのだけれど)、たとえ結果が悪かったとしても「あれだけ勉強していたのだから、精一杯やったのだから」という言い訳を言うためにも、趣味をすべて中断してまで勉強していたという視覚的証拠が必要、という保身に過ぎないわけです。
なぜ効率的に勉強をする努力(という名の工夫)をして、充実した生活を送ろうとする努力(という名の工夫)をしようとしないのか。いや、そういう人もいるとは思うけど、やはり多くはそれをしようともしない。発想すら描けていない。
この風潮は受験以降にも影響が出てしまいます。勉強の目標が合格することに設定してしまうと(それも親御さんがそうい言う教育をしてしまうことが多い)、合格した時に強いストレスから解放されたことによる気持ちの緩みや目標の欠如から勉強を一切しなくなって反動で遊びまくってしまうのです。何のために進学をしたのか。何のために在学しているのか。いい加減みんな気づきましょうよ。
やはり思うのです。深みのある人間になるためには、座学の勉強だけでは絶対に不足していて、様々なことを経験したり、ひとつのことを継続し、追求し、積み上げていくことが人間として本当の意味で大切なことだと思います。
勉強(受験勉強)はもちろんしないとダメですが、他の全てを犠牲にしてまですべきことではないと思います。
工夫という努力をして、たくさんの経験から学びを得てほしいです。
荻原明(おぎわらあきら)
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