専門的な環境の中に長くいると、それがあたかも一般的だと思い込みがち

音大や音楽の現場にいると、かなり専門的なことを「当然みんな知っている」と勘違いしがちです。


例えば楽譜に「rit.(ritardando=リタルダンド)」という文字が出てきたとします。リタルダンドには「だんだんテンポが落ちていく」という意味があります。しかしテンポが落ちっぱなしでは演奏にならないので、曲中の場合はほぼ必ず「a tempo(ア・テンポ=元のテンポに戻す)」という指示記号がセットになっています。


僕はレッスンで、このような楽譜に書かれている文字や記号について必ず質問をします。「このリタルダンドはどのように演奏しますか?」と。正解はひとつではありません。大切なのは「書いてあるからテンポを遅くした」という受け身ではなく、自分の中具体的なイメージを持っているかです。


そしてさらに聞き方を変えます。「その場面をお客さんにどのように感じてもらいたいですか?」


突然の「お客さん」という第三者へ対象が代わり、少し悩んでしまう方もいますが、悩みつつも何か答えてくださる方がほとんどで、例えば、


「テンポが遅くなっているのを理解してもらえるように...」とか

「a tempoになった瞬間、元のテンポに戻ったことがわかる演奏を...」


という模範的回答をしてくださるのですが、残念ながらそれは大変専門的すぎるのです。


映画館で映画を観ていて、そこにいるお客さんのほとんどが撮影技術や編集技術の知識が皆無であるように、音楽が好きでわざわざ会場に足を運んでくださる方の中に、楽譜がバッチリ読めて、それを楽器や歌などで正確に演奏できる方は、きっとほとんどいません。


音楽教室や音大、演奏の現場の中にいると、これを忘れてしまいがちなのです。たとえ趣味でトランペットを演奏している方であっても、楽譜を読むとか楽器を使って作品を演奏するのはかなりの特殊環境です。

演奏者は、コンサート会場にいらっしゃるお客さんのほとんどが、楽譜や演奏に関する理論的知識を持ち合わせていない人たちなのだ、と理解しておくことが必要で、その方たちが演奏を聞いて楽しんでくださるためには、演奏者はどのような姿勢で演奏すべきかを考える必要があるのです。


ですから、先ほどのリタルダンドに関しても「テンポが遅く」という表現はすでに専門的解釈の範疇で、もっと多くの人が共感できるイメージを届けようとしなければならず、例えば


「お母さんに優しく抱きしめられて眠りに落ちていく子ども」とか

「電池が切れて動けなくなりそうなおもちゃ」とか

「だんだん勾配が激しくなって足が前に進まない」とか。


このほうがよほど「表現」である、と思います。

その解釈が作品の実際と違うとか、そういうことではありません。音楽を理論的解釈のままお客さんに伝えてしまっては、何の知識もないまま大学の専門的な講義を聞かされているような状態にお客さんがなってしまうので避けなければならない、ということです。


専門的な環境の中に長くいると、それがあたかも一般的だと思い込みがちですが、一歩外に出たら理解してもらえない可能性がある、と知っておくことが大切です、というお話でした。





荻原明(おぎわらあきら)

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