音大受験って、学校にもよりますが専攻楽器が何であれ、副科ピアノの実技試験があります。
僕が受験した東京音大はそれがあって、ピアノをきちんと習い始めたのが受験を決めた高校1年からだったのでだいぶ遅いかな、と思います。
でもピアノはその前から好きで久石譲さんの曲とか弾きまくっていたので、抵抗はまったくなく、楽しく演奏していました。
子どもの頃って、標題性やストーリーが明確な作品のほうがすんなり入りやすいです。一般的には。
映画音楽とかアニメの音楽もそうですよね。この作品のこの場面で流れていた曲!ってすでに素材が準備されているのでイメージしやすいわけです。
クラシック音楽でも、例えば最近まで編曲してた「ローマの松」なんかでも、最後の「アッピア街道の松」なんかは、軍隊が向こうからこっちに向かってズンズン来るー!ってすごいわかりやすい音楽。すんなりイメージできる。
吹奏楽部でも、ポップスの作品は標題性が強いですし、コンクール曲なども明確な作品ばかりでした。
僕はそうしたわかりやすい作品に興味を持ちがちでした。そして、音楽作品、果ては芸術作品には何かしらの具体的なイメージやテーマ、意味が込められているものだと思う傾向にありました。
受験で演奏したピアノ曲は、モーツアルトのソナタだったんです。
これが非常に手強くて、今までのようにはいかないんですよね。
感覚的、という言葉がふさわしいかわかりませんが、なんと言うか、手応えのない美しさを感じます。
それに納得がいかず、いろいろ調べました。
モーツアルトの伝記や、作品年表からこのソナタを書いた頃にモーツアルトがどんな人生を送っていたのか。
もうホントにいろいろ調べたんですが、はっきり言って
全然関係なさそう。
そんな感じでした。
音楽に関わる方からはいろんなご意見があるかと思いますが、僕にとってモーツアルトは、
『感覚的』『直感的』
これに尽きます。
パッとメロディが思いついて「これイーネ!」ってスラスラスイスイスーイと書いたような感じ。
モーツアルトが今生きていて、「このソナタ、どんな思いで書いたんですか?」って聞いたら、
「えー?うーーん...イキフン?的な?わかんね!」
って言いそうだなあって思うわけです。
でも高校生の僕はそれがどうしても納得いかなかった。何か意味を持たせたかった。
だからとっても息苦しい演奏をしていたように感じます。
絵画とかも、展覧会で見たものひとつひとつに意味を持たせようとしてしまうので、当時はあまり面白くなかったんですよね。
そんなことじゃなくて、見たときの素直な自分の印象、感じ方で楽しめばそれで良いわけで、芸術ってそういうものだな、って結構最近になってわかるようになったというか、自分で納得したというか。
肩の力が抜けました。やっと。
楽しければいいんです。芸術ってそんなもの(奏者は場合による)。
今だったらモーツアルトも楽しく弾けそうな気がするけど、ピアノやってる時間がなくて受験対策レッスンやトランペットのレッスンでちょっと鍵盤触る程度です。もったいないけど。
荻原明(おぎわらあきら)
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